武田百合子「遊覧日記」
まず、冒頭のヤエちゃんのエピソード完全にやられてしまう。一人で充実した遊覧を楽しむヤエちゃん。東京に身寄りも友達もいないヤエちゃんが何を思っていたのかはわからないが、外へと向けた興味やエネルギーの眩しさよ。そしてそれを感傷的にならず、そのまま受け取る百合子さん。
行ってみたいと思えばいいし、行ったら楽しめばいいよと百合子さんにぽつりと言われてるようで、遊覧したくなる。百合子さんと同じ場所に行ってみたくなる。そこへ行ってぼんやりと過ごして何かを眺めているだけで良いような気がしてくる。
この本の解説に書かれていた、百合子さんは本当に目がいいという話にうなずく。そして、かつ、ずっと見て居られる人だったのだとも感じる。ずっとじーっと見続けることは簡単なことではないと思う。目が合ったり、無意識にでも目が合うのを避けようと目を逸らす。または他のものへ興味がいって見るのをやめる。でも、百合子さんは気の済むまで見て居られる人だったのではないかなと思う。それは、自分で立って自分で見て自分で感じることが、生きる習慣になっていたということではないか。ますますファンになってしまった。
自分も見ることを恐れずに、見たい。気の済むまで見て眺めれば良いやと思う。そしてその合間合間に忘れられない瞬間がやってくる。
例えば「墨田川」の章で百合子さんは、日が暮れて提灯に灯をともらせて浮かぶ屋形船を見てこう書いている。
「私はわくわくし、こういう場合、俳句を作る人は一句浮かべるのだろうと思い、一句浮かべようとしたが浮かばず、ただわくわくするだけだった。私のお腹は、もう、さっきからの飲食で、ひょうたんのようになってしまっていた。」
なんて豊かな瞬間なのだと思う。こういう瞬間を幸せと呼ぶのではないかと思うくらい。
百合子さんの文を読んでいるとつくづく、何を見るかは問題ではないんだと気づかされる。何を見てもどこへ行っても何かが心に触れて感情が流れてゆくのだ。何を見ようと心は動く。この爛漫な素直さに魅かれる。何をしてもよいのだ。
自分のまなざしさえあれば。