無事日記

本や映画や芝居やそこらへんの雑記です。

武田百合子「富士日記 (上) 」のこと

富士日記を読んでいると、そこが夢の世界のようだ。ケータイもない、無駄なものがない。読み始めると、唐突に富士山麓の武田家にホームステイしている。絵葉書のような光景だと読み進めていくと、いつしか武田家のリズムに自分も慣れてきて、映画のように絵が動き出す。一緒に車に乗り、買い物をし、太陽を浴び、冷たい風を感じ、武田百合子さんの、武田家の、フィルムに焼き付いているような鮮やかな色彩の生活の時間を少しお裾分けしてもらってるような感じがする。

でもそれはロハスだとかナチュラル系だとかそんな輪郭の淡いものじゃない。時として俗っぽい感性も多分にありながら、自然とその中にある自分の燃える感情に正直に生き、その生を素直な言葉で綴っている。

武田百合子さんの文章はシンプルな言葉でありながら、その奥の濃い原色が見える。そのバランスがいろっぽい。

昭和四十一年一月二日の日記の最後の部分。

「 門の石柱に上がって、犬がいつもしれいるように、ぼんやりと見渡す。西に拡がるなだらかな雪の高原の果てに、ぽつり、ぽつり、と鳴沢村のくらーい灯が灯っている。一つだけずっと離れて、黒い山の中腹にも灯っている。黒い村有林へ消えてゆく真直ぐの白い道に、雪をえぐって走ったチェーンタイヤの、泥まじりの無惨な跡が二本続いている。心が真黒になってしまう。」

突然隠し持っていたナイフがギラリと光ったような、ドキッとさせられる切れ味の文章だ。

昭和四十一年四月五日の日記の最後の部分。

「 ポコはグリンピースの御飯を大喜びで食べる。動物が下を向いて御飯を食べているとき、その頭を撫でていると気が和む。しゃがんで動物に御飯をやるときが好きだ。

 夜、星空。」

春の富士山麓の空に広がる濃紺が目に浮かぶよう。満天の星のその下で、ちっちゃくしゃがんでいる百合子さんとポコ、その空気や音も聞こえてきて胸がいっぱいになる。

昭和四十一年五月十九日の日記の最後部分。すばらしい星空の中、庭に松脂の匂いがして。

「 空襲で焼け出されたのが五月の三十日で、六月のはじめの晩、焼け残った荷物を一つずつ背負って提灯を下げて、弟と山の中の一軒家へ登って行くとき、この匂いが一杯していたので、そのことを思い出すのだ。それからあとの胸苦しい羞しい色んなことが、わっとやってくる。自然がいやになる。」

百合子さんのように感情的になりたい。素直に自分のまなざしを持っている方なのだと感じる。いつでも自分という灯台からものごとを照らしている。

 富士山麓にぽつんと立つ一軒家の二階のベランダで、タバコをくゆらせながら富士を見上げる武田百合子。なんとも贅沢な魅力のある光景を勝手にイメージしては、百合子さんのファンになっていった。つい百合子さんと呼びたくなる。今から富士日記を読み終えてしまうことが寂しい。

もう15年くらい前の雑誌ku:nelのバックナンバーに百合子さんの娘さんの花さんのインタビューが載っていた。百合子さんに日記を書くことをすすめたのは、夫の泰淳さんで「日記を書くときは反省は書かなくて良い。したことやしたいことがあれば書けばいい」との言葉。自分に言われたようで嬉しくなってしまう。

武田家へのホームステイをまだまだじっくり楽しもうと思う。

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